出生〜はじめて鍼治療をうけるまで
誕生
昭和32年2月2日、福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)の◎◎産婦人科において、一人の男の子が帝王切開で生まれました。
麻比児(あさひこ)と名付けられました。
母は美智子(33歳)、父は保夫(35歳)でした。両親とも公立学校の教員でしたが、父は子供の出生をきっかけにして、吸っていたタバコをきっぱり止めたそうです。
子供のころ病弱でした
幼少のころの記憶はあまりありません。ただ、ふとんに寝ていて、立とう立とうとするけど、立てない。立とうとしては転び、転んではまた立とうとしたり...。
そのときと同じ時と場所なのかどうか記憶があやふやなのですが、母の教え子らしきお姉さんが二人、私のほうを見ながら,「可愛い、可愛い」と言っています。
とても大きなお姉さんのような記憶があるのですが、母は小学校の教員でしたから、小学校の高学年の女の子だったはずですよね。
記憶の中では、何故かそのお姉さんたちには顔がありません(~_~)。
さて、4歳のころ、両側の大腿部に注射をしました。これによって筋肉(大腿四頭筋)に拘縮が起こります。
注)小さい頃から「あんたはよく自家中毒になって病院にかかって、太ももに注射してもらっていた」と父母から聞かされていました。
改めて調べてみると、自家中毒というのは現在は「周期性嘔吐症」とか「アセトン血性嘔吐症」とか呼ばれ、比較的予後はよいとされているようです。
それにたいする注射...ということは頻回の嘔吐による脱水症状にたいする補液という意味だったんでしょうか。ま、それで筋肉に拘縮がおこっては本末転倒と言うべきでしょうが...。
一度だけ、ある病院で診てもらい、そのときは、リハビリを続ければ治るといわれたような,言われなかったような...。
とにかく、その「リハビリ」なるものが痛くて辛くて、こんなこと続けられるか!...というようなものでありました(そういう記憶しか残っていません)。
その病院に連れて行ってくれと頼みませんでしたし、もう二度とその病院には行きませんでした。
リハビリを続ければ少しは違ったかもしれません。辛くて痛いものだけれども、辛抱して続ければ「こんないいことがあるよ」(笑)と、もっと希望を持たせてくれていたらと、、、。
いま考えると、そういう希望をもたせるような言葉がひょっとしたらあったのかもしれませんね。しかし少なくとも、子供の私は「リハビリは痛くて辛い」という事実に圧倒されていたというのが実情でした。
なんにせよ、半世紀前のことなので、医療水準を考えれば無理もないと思います。リハビリを担当する方も、実のところあまりわからなかったのかなあと推測してしまいます。
(参考:大腿四頭筋拘縮症とは)
「大腿四頭筋拘縮症」という病名を知ることになるのは、ずっと後。私が鍼灸師となって、勤務しているときでした。
大腿四頭筋拘縮症の症状
- 正座ができない
- 仰向けで立てひざができない
- 大腿部の前面の筋肉が抗縮しているので歩行時には膝が曲がらず、前かがみになる
- 走行時には下肢をぶんまわすようにしてしまう
- うつ伏せで膝を曲げようとしてある角度にくると、臀部が上がってしまう・・・など
けっこう派手目(笑)な機能障害が見られるのですが、上記以外での日常生活での痛みはそんなにありません。
私自身の感覚として言えば、この「大腿四頭筋拘縮症」、病気(「治る」べきもの)というよりは ‘状態’ という感じなのです。(あくまでも、私の主観ですけど)
鍼治療をはじめて受ける
何故、大腿部に注射をしたのかというと、病弱だったのひと言につきます。
すぐに具合がわるくなっては医療機関にお世話になる、という生活が幼少のころから高校生・大学生くらいになるまで基本的に続いていました。
注射というものに対して、当時の人々は(医師も患者も)あまり抵抗がなかったのですね。現在では得られる便益と様々なリスクを勘案して行なうというのが当たり前になっていますよね。
特に小児科において、初診時に注射をしてしまうということは、生命に関わることを除いては、あまりないのではないでしょうか。
注)ですから、ある意味で(あくまである意味でですが)、私たちの筋肉拘縮症の発生は、医療の「発展」への大いなる貢献である...と言ってしまいたい衝動にかられます(苦笑)。
そんな折、小学校の高学年だったか、中学生のころだったか、初めて鍼治療を受けました。
当時まだ日中に国交はなかったのですが、中国で勉強してきたお医者さんで鍼をする人がいる...というのを父か母が聞いてきて、私を連れて行ってくれました。
ですが正直、そのときは、私の心の琴線にふれるようなものではありませんでした。
まして鍼灸をする治療師の資格(「はり師」「きゅう師」)があるなど知る由もなかったのです。
いずれにせよ、この大腿四頭筋拘縮という状態が滓(おり)のように私の心の中にたまり、何をするにもその障害となったのでは、と今では思います。
鍼灸師になる...
漠然とした“夢”
少年期、ご多分に漏れず(?)まっすぐな正義感というか、不正を許さないというより嫌いだ...という感性をもっていました。
中学・高校のころは(今思うと)世の中が高度経済成長期に向かって走り出している時代。そろそろ公害問題も起こりかけていて、そういうものに対する憤りだけは一人前でした。
高校生のころ、心の中に芽生えたのは、「公認会計士になって、企業が不正をはたらかないようにチェックする」という漠然とした希望でした。
ところが、致命的かつ重大なことを忘れていました。私は数字にからっきし弱いのです。算術とか数学が大嫌い。電卓をつかって加減乗除くらいはできますけど。
算術でも暗算とかは大の苦手なのでした。(数学的な思考方法などはわからないなりに好きなんですけどね...。)
これで会計士志望は無理だし、無謀ですね(>_<)。
従って(気づくのが遅いのですが)、結局挫折しました。
「身体障害者手帳」の交付を受ける
大学の保健体育の教授から、やはりリハビリを指導され、これを続ければ治るよと言われました。いや正確になんと言われたかは覚えていません。治ると言われたか、正座ができるよと言われたか...。
「身体障害者手帳を持っているのか」と問われて、「いいえ」と答えたものの、“それは何なの?”と心の中でつぶやく自分がいました。正直とまどいました。
知りませんでした。教授はごく当たり前のこととして聞いたと思いますが、私としては「自分が身体障害者手帳を交付される範疇に入る」という意識がまるでありませんでした。
手続きをして交付された身体障害者手帳には肢体不自由6級とされました。
自分は「障害者」であるのか。でもこれくらいで「障害者だ」と言うには、もっと不自由な人に申し訳ないなとも思ったのは事実です。
6級は何か「給付される」ことはなくて、
- JR乗車運賃が100km以上の乗車で半額になる(急行や特急料金には影響なし)
- 西鉄(在住している地域の私鉄)バス運賃が半額になる
- 北九州市モノレールの乗車運賃が半額になる
- 北九州市営駐車場が半額になる
- 北九州市都市高速道路の通行料金が半額になる
等等、自分の足に使う金額が“補助”される感覚です。これで若干行動半径は拡がったと思います。
それでも何か役に立ちたいと...
会計士への希望はついえたのですが、何か世の中の役に立ちたい...と思いました。皆、多かれ少なかれそういう感情はあるとは思いますが、
私の場合は大腿四頭筋拘縮コンプレックスの裏返しというのも作用していたのでしょう。
大学卒業を控えて、周囲の人たちは着々と企業への就職を果たしていき、自分が取り残されていきました。(少なくとも、自分ではそういう思いでした)
そのころ漢方の治療をうけていました。京都から某先生が北九州に来られて漢方藥を処方し、鍼灸治療を行っていたんです。
これも両親のどちらかが聞いてきて受けさせてくれました。それをきっかけとして、鍼灸というものが自分の進路としてあるんだ、ということを意識にのぼらせるようになってきました。
そして「はり師」「きゅう師」の免許を取得して世の中の役に立つんだと思い立ちました。
大学の就職課に鍼灸専門学校に行くことを報告すると、実に爽快な解放されたような気分になったのを覚えています。
係りの方は何とも微妙な表情をされていましたが(^^ゞ。(たぶん、当時はそういう学生は少なかったんでしょう)
「はり師」「きゅう師」(まとめて鍼灸師)には“臨床研修の制度”はありません。それは各自にまかされているのです。
とにかく自分の道は自分で切り開くんだ、と希望に満ち溢れていた時期でした。
鍼灸学校に入る
はり師、きゅう師になるためには、まず鍼灸専門学校(か大学。私が鍼灸師を目指していたころは大学はありませんでした)に入り、所定のカリキュラムを履修した後、国家試験に通らねばなりません。
現在は東洋療法研修試験財団が試験を行い免許を交付していますが、「国家資格」であることに変わりはありません。
鍼灸学校というのは面白くて、同じ年齢の学生で統一されているわけではありません。
私は20代前半で行ったわけですが、高校を出たての少年少女から30代・40代の男女まで多彩な人々がいました。
資格をとるためにとりあえず行かねばならないところ...と当初は割り切っていました。が、私にとっては本当の“学校”だったなと思います。
鍼灸師に「なる」
国家資格を取得するための試験に合格し、鍼灸学校を卒業した後(卒業前に試験がありました)、福岡の梅原鍼灸療院に就職しました。
院長の梅原忠博(うめはら ただひろ)先生から治療に対する考え方・症状に対する診方・患者さんへの対応など様々なことを学びました。
この鍼灸院は患者さんも多く、色々な症状の方にであうことができました。難しい症状の患者さんもいて、とても勉強になりました。
ここで現在の私の治療に対する考え方の基礎がつくられたと思います。いくら感謝してもし過ぎることはないと思います。
ちなみに、私が大腿四頭筋拘縮症であると知った(認識した)のは梅原鍼灸療院在職時です。
当時は現在のようにネットで検索して調べるということは考えられませんでしたから、自分が大腿四頭筋拘縮症という名の疾患をもっていることすら知る由もありませんでした。
脚をぶん回して走ったり前かがみで歩いたり、自分そっくりな走り方や歩き方の少年をテレビカメラが物珍しそうに(?)追っているのを見て、何やらおそろしいというか、冷や〜っとするというか。
自分がそういう疾患を持っていること自体よりも、世間的に見れば好奇の対象なのか、、、という冷え冷えとした感覚がありました。
とにかく当時は目立ちたくないな...と思ったのが本当のところでした。
注)私は自分が大腿四頭筋拘縮症と知ったのが20代であったわけですが、同じ疾患をもっている方(女性)に最近うかがったお話では、その方は高校生の時に(報道で)知ったとのことです。
実はその方は生年月日が近い同い年なんですよね。となると、なぜ私が二十代まで知らなかったのか、謎ではあります。
ところで、いまの話でおわかりのように、ホームページで私が大腿四頭筋拘縮症であるということを公表してから、幾人かの方から連絡がありました。
大腿四頭筋拘縮症の患者というのは、横の繋がりがなくて、ひとり孤独に悩んでいるという状況が多いのかもしれません...。
(注)近年、「薬害筋短縮症の会」に入会しました。注射による筋拘縮症には注射部位によって、「大腿四頭筋短縮症」「殿筋拘縮症」「三角筋拘縮症」の三類型があります。全国にこの患者達が散在しているということがわかりました。とりあえず、横の繋がりはこれでできるようになりました。
北九州に帰って...
数年間の研修を経て、生まれ育った街北九州に帰って参りました。当初は八幡西区石坂において開院。
開院後しばらくして、近所の同業の先生から、「大分に勉強に行きませんか?」とお誘いを受けました。大分の弦躋塾(げんさいんじゅく)に行かれていたのです。
これをきっかけに弦躋塾の塾生となり、首藤傳明(しゅとうでんめい)先生にお会いすることが出来ました。こうしたご縁をいただいたことにとても感謝しております。
そして8年後、町上津役(まちこうじゃく)に移転開院いたしました。
移転当時を知る患者さんからは「余裕が出て来ましたね」と言われますが、それは様々に経験させていただいた(いる)おかげだと思っています。
今後とも初心を忘れず、変わらぬ思いで患者さんの症状に向き合ってゆきたいと思います。