西方寺門前のことばを見る
「私のものさしで問うのではなく
私のものさしを問うのです」
これを見た(読んだ)とき、
真っ先に感じたのは「きついなあ」ということでした。
私個人として、判断基準のようなものが
あり、ある意味これに固執していて、それが
楽な事だったりします。
その判断基準そのものを「問う」ということは
ある意味、楽な道を放棄するということになるんだよなあ。
普段はそういうことは考えないから、
考えることそのものに意味があるのかもしれませんけどね。
翻ってというか俯瞰して考えるに、
この言葉はおそらくお寺の説法に出てくるのかなあ、と。
ここまで考えて、いつもの通り(笑)ググってみました。
するとあるページにこんな文章が...。以下は浄土真宗の
あるお寺のホームページからです。(改行は引用者による)
(http://renkoji.rexw.jp/base2.htmlより)
ここでは「私のものさし」ではなく「自分のモノサシ」と表現
されていますが、同じものを指すと思っていいでしょう。
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自分のモノサシで問うのではなく
自分のモノサシを問う掲示板にこんな言葉を書きました。
人はそれぞれ育ってゆく環境や教育、宗教等の影響によってそれぞれ価値観を形成します。
その価値観の根底には自我の心、我執があるのです。・・・略・・・(その我執の心に)これまでに経験、学習した様々な価値観を加えて出来上がったのが
私のモノサシなのです。・・・略・・・
私たちは生きてゆくかぎり、そんな自分のものさしでものをはかってゆかねばなりません。
でも、この自分のモノサシを唯一の正しいもの、絶対的なものとして振り回してゆくと、
他人を傷つけてしまいます。そして、自分も傷つきます。仏さまの光に照らされ、法を聞くところに、その自分のものさしが問われます。
このモノサシは正しいものだろうか、間違っていないだろうかと疑問がおこり、
我執、煩悩が混じった危ういものだ、人それぞれに違うものだと気付かされます。
自分のものさしが問われるのです。
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な~るほど。私のものさし「を」問うとは、
自分の値打ちや判断基準を鋭く問うというよりは、
固執(我執)を捨てて、自分のものさしはいったい正しいのか
と改めて問うという謙虚な姿勢を持たねばならないということなんですね。
なかなか凡人にはできにくいけれども、
そういう心がけだけは忘れないようにしよう...。
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お読みいただき誠にありがとうございました。
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